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朝鮮日報 記事入力 : 2012/01/04 14:37
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/01/04/2012010401932.html
【コラム】誰もがあざ笑う社会
大統領、宗教家、学者、小説家、判事、記者。今や誰一人として敬語を使わない。
最後のとりでと思われていた聖職者たちまでが、大統領に対して何のためらいもなく「ネズミのような」という下品な表現を使う。
判事も「骨の髄まで親米」「閣下をわなにはめる」といった表現であざ笑う。
第1次世界大戦時にフランスがドイツを阻むために国境に構築した「マジノ戦線」があっけなく破られてしまったように、
一国の精神文化は言語のマジノ戦線を死守できない
のだ。
誰に対しても尊敬の念を抱かない。
17世紀にトーマス・ホッブズ氏が語った「万人の万人に対する闘争」のように、
われわれは万人対万人という形の「あざ笑う社会」へと突入した。
時代の痛みを全身で叫ぶ人々の声は、何事もなかったかのようにかき消されてしまうのだ。
過去に詩人の申庚林(シン・ギョンリム)氏は、われわれから「叫び」が消えてしまったと語った。
人をあざ笑うことが、最も人気のあるライフスタイル
となってしまったのだ。
嘲弄(ちょうろう)は、皮肉を販売戦略として打ち立てた非主流メディアの専有物と思われてきた。
彼らはこの世の頂点に立った既得権勢力を蹴落とすことで、短時間で自分の名前を世間に知らしめた。
時には告発者の役目も担った。
反撃を避けるためには比喩的要素を多彩に織り交ぜた嘲弄が効果的だった。
10年ほど前から、こうした勢力は社会の四隅に腰を据えるようになった。
監視役といった意味から、このような人々は社会にとってなくてはならない存在であるかのように思われた。
しかし、そう思っていた私の愚かさが天をも貫いた。
彼らは非主流にとどまらなかった。
嘲弄を上手く扱うことができる勢力は、すでに高みに立って世の中を見下している。
嘲弄とは本来、芸人の専売特許だった。
王は自分の権威に挑戦する貴族や宗教家、学者たちをあざ笑いたかったが、王という立場から露骨にそのような態度を見せるわけにはいかなかった。
そこで、その代わりを演じたのが芸人だった。
芸人は、王が見守る宴会で貴族や宗教家、学者たちをあざ笑った。
紀元前のギリシャの喜劇作家アリストパネスが残した伝統に倣い、下品な言葉を使ったり、性や金、政治について語ったりすることにも恐れを抱かなかった。
そして今では全ての人が芸人の役目を担っている。
嘲弄の対象だった宗教家や学者、判事までがまるで芸人になったかのように嘲弄することに徹している。
この世の中には何かしらのわなが仕組まれていると見て、まずは疑って掛かる。
嘲弄する人々は、辺境の非主流ではなく、今では中央の大勢力となった。
記者だけではなく、教授や小説家までが手を組んでいる。
主流と非主流の境界が完全にぼやけてしまったのだ。
嘲弄をライフスタイルとしたことで、厳しい賛否論争は色あせてしまった。
人々は取っ組み合いのけんかをするために、二つの勢力に分けられた。街頭で問題を叫び、街頭で問題を解決した。
こん棒や拳、盾、武器、放水機が入り混じった混沌(こんとん)状態が続いた。
討論と採決がなくなり、民主主義の殿堂は荒廃した。
ひたすら嘲弄産業だけが大きく発展した。
昨年は、無償給食、選択的福祉と普遍的福祉、韓米自由貿易協定(FTA)、四大河川(漢江・洛東江・錦江・栄山江)再生事業などをめぐり宣伝戦とポピュリズムがはびこり、有権者たちはこうしたやり方に成すすべがなかった。
舌戦の土台には嘲弄があった。
あざ笑って、あざ笑って、さらにあざ笑った。
昔からフランスの街頭では「水曜日に表れる風刺」という副題が付いた週刊新聞「カナール・アンシェネ(鎖に縛られたカモ)」が人気を呼んでいる。
さまざまなニュースを取り上げて徹底的に冷笑的な社会批評を浴びせるのだ。
100年の歴史の中で風刺と嘲弄は区別され、読者はそれを理解した。
魯迅は「風刺の生命は真実にある」と主張した。
しかし、真実を気にしない現代の嘲弄者は、一人の時はひきょう者で、大勢になると危険な存在と化すようになった。
』
芸人文化まで落ちてしまった韓国文化ということだろうか。
価値の判断がすべて経済、すなわち「ゼニの量」で決まるとなると、それも止む得まい。
「思いやる」という倫理観に代って、嘲弄という基準が文化の基礎になりつつある
ということだろう。
『
朝鮮日報 記事入力 : 2012/01/04 14:40
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/01/04/2012010401943.html
【コラム】「カカ」も「ナッコムス」も解決できない問題
姜京希(カン・ギョンヒ)経済部次長
最近、クレジットカード会社からカードが届いた。
配達員が会社の1階で待っていたため下りて行ったところ、携帯電話で声を荒らげ、誰かと言い争っていた。
電話を切った後も怒りが収まらない配達員は、記者にこう訴えた。
「カード1枚配達して得られる収入は500-1000ウォン(約34-67円)だ。
足にまめができるほど歩き回っても、1カ月に100万ウォン(約6万7000円)も稼げない。
それなのに、約束の時間に40分以上も遅れた人が、今ごろになって(配達に)来いと言うので、頭に来た」
韓国の経済規模が大きくなっている一方で、生活が苦しいと不満を打ち明ける人が増えている。
それは、食事代が3000ウォン(約200円)から30万ウォン(約2万円)まで幅があるのと同じくらい、人々の労働に対する報酬の差が大きくなっているためだ。
米国のジャーナリスト、エドアルド・ポーター氏は著書『「生き方」の値段』で、
「生命にすら値段が付けられ、過去に比べ労働市場はあらゆる面で過酷なものになった。
労働市場での賃金の上昇は、正義とは無関係だ」
と述べた。
労働による報酬は、生産性や労働者たちの需要・供給によって決まる。
だが、人々から注目されなければ、どんなに優れた物品でも売れないのと同じように、労働や生命に付けられる値段も常に適正とはいえない。
少し前、火災現場で消火活動中に殉職した2人の消防官が、1カ月に平均約30回出動して得ていた収入が、月給(約200万ウォン=約13万円)以外に、5万ウォン(約3400円)の危険手当と8万ウォン(約5400円)の火災鎮圧手当しかなかったという実態が明らかになり、多くの国民がやるせない思いを抱いた。
1回の出動に対し受け取る手当は5000ウォン(約336円)にも満たないというわけだ。
このニュースが報じられたころ、テレビのメロドラマに1回出演するごとに5000万ウォン(約336万円)のギャラを受け取っていた男性の主人公は、無茶苦茶なストーリーで視聴者たちの涙を誘っていた。
元々、世の中は公平ではないが、多くの人々が以前にも増して不公平になったと感じているのは、無能な政治家や貪欲(どんよく)な企業家だけの責任ではない。
トップに立つ者だけが富を独占し、それ以外の人々は相対的に貧しくなる
「スーパースター経済」現象
が、芸能界やスポーツ界だけでなく、社会の隅々に蔓延し、人々の関心や好みによって価格が変動する現象が顕著になっている。
これと似たような現象について、経営学者のトーマス・ダベンポート教授は
「今日において最も貴重な資源は『関心』だ」
と述べた。
あらゆる情報が錯綜する時代にあって、人々の「関心」そのものが貴重な資源となり、関心がどこに向けられるかによって、個人やビジネスの成功が左右されるというわけだ。
例えば、芸能人の真似事をすることに夢中になり、とりわけドラマを好む韓国の視聴者たちのおかげで、芸能や整形手術などの市場は急速に膨張し、スター級の芸能人がコマーシャルに出演する際のギャラも高騰した。
また最近のように、政治が世間で話題となる時期には、大統領を「カカ(閣下)と呼んでからかい、政治に対する人々の不満を代弁する、インターネット放送『ナヌン・コムスダ(「私は小賢しい」の意、通称ナッコムス)』のような「政治商品」に対する関心が高まっている。
韓国社会の不平等な構造は「カカ」でも解決できないが、「ナッコムス」によって解消できるものでもない。
経済的な観点から見ると、市民の関心を効率的に再分配することが、さらに効果的な資源の再分配をもたらす可能性につながる。
依然として不十分とはいえ、2人の消防官が殉職したニュースに対する国民の関心の高まりを受け、与党が遅まきながらも危険手当を最大10万ウォン(約6700円)に引き上げる案を打ち出したのは、そのいい例だ。
2012年には、経済情勢がさらに厳しくなる見通しだ。
人々の暮らしが少しでも楽になることを願うのであれば、新年の目標を立てる際、他人への関心がどの程度あるか考えてみる必要がある。
1回の配達で、バス代にも満たないほどの収入しか得られない配達員との約束は簡単に破る一方で、芸能人のギャラを上げるのに貢献する消費者になるのは、いかがなものだろうか。
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資本主義社会とは「ゼニの社会」である。
資本主義を金科玉条のように崇めたてまつっているということは、黄金を拝んでいるようなものだ。
お金持ちが正しく強者であり、貧乏人は悪であり弱者というわけである。
それを国是にしている限り為す術はない。
労働による報酬は、生産性や労働者たちの需要・供給によって決まる
のなら、答えは簡単である。
人間が多すぎるのである。
いくらでも換えが効くから報酬が安くなる。
換えが見つかり難いなら、報酬は高くなる。
つまり、人口が多いということがもたらしたものだということである。
日本と同じく経済的にはピークを迎えて下りに入っている今、韓国はこれから過剰人口という脅威に晒されていくことになる。
この過剰さは日本よりすさまじい。
だからこそ急激な経済成長ができた。
が、今度はそれがアキレス腱になってきている。
人を押しのけてもやっていかねばならなくなっている。
周りをかまっている余裕がなくなってきている。
コトが事だけに治療法がない。
ニ世代くらいの長い年月がかかる。
「人心荒廃」の世に突入しつつある。
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サーチナニュース 2012/01/05(木) 09:59
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0105&f=national_0105_021.shtml
韓国のGDPがOECDで10位「経済大国も、国民は貧乏」
韓国の企画財政部は4日、「2011年国家競争力報告書」を発刊した。
それによるとGDP(国内総生産)はOECD(経済協力開発機構)加盟国34カ国のうち10位だったが、国民生活のレベルを表す複数の指標が下位圏にとどまっていることが明らかとなった。
韓国メディアが相次いで報じた。
同報告書は経済・社会統合・環境・インフラ部門の259に及ぶ指標を用いてOECDの国々の競争力を比較分析した結果を示しているもの。
報告書は
「成長率、経常収支、外債などマクロ指標は優秀だが、所得配分、両性平等など公平性指標は下位圏にある」
と指摘している。
具体的にみると、GDPはOECD加盟国中10位、経済成長率2位、総外債の比重1位、外為保有額と政府の財政収支はそれぞれ2位と4位、人口100万人当たりの特許出願数1位、労動生産性増加率が1位、電子政府指数1位――など、経済部門の指標は上位を占めた。
一方で、
社会福祉支出の比重33位、
公的年金の支出29位、
女性の賃金比率(対男性)19位、
青年層雇用率29位、
法治レベル25位、
所得分配の不均衡を表すジニ係数20位、
医療費支出レベル下から3番目
――など、国民生活レベルを示す指標は下位レベルにとどまっている。
韓国メディアはGDPや経済成長率などマクロ経済の指標がOECD諸国で上位圏だったことを評価しつつも、福祉部門における各種指標に基づいて
「マクロ経済指標は良好だが、社会福祉支出はビリ」
「社会の両極化も深刻」
「経済は先進国だが、社会統合・環境は脆弱」
「世界10位経済大国の恥ずかしい自画像」
などと厳しい見方を示した。(
』
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サーチナニュース 2010/08/23(月) 16:24
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0823&f=national_0823_108.shtml
「開発途上国のレベルだ」、韓国が移民したい国50位に
米の大手調査会社ギャラップが20日、海外移住希望者数に関する調査結果を発表した。
その結果、全調査対象148カ国のうち韓国は50位、日本は33位だった。
韓国の複数のメディアが
「経済は先進国レベル、対外イメージは後進国」
などの趣旨で報じた。
ギャラップ社は2007年から4年の間、世界148カ国35万人の成人を対象に
「機会があれば海外へ移住したいか」、
「移住するならどの国に行きたいか」
の2つの質問を行った。
そして、特定の国へ移住を希望する成人の数から、その国の海外移住希望者数を差し引いた PMMI(潜在的純移民指数)
を用いて、148カ国をランク付けた。
つまり、PMMI指数が大きいほど、その国への移住希望者が多いことを意味する。
調査の結果、シンガポールのPMMI値がもっとも大きく、ニュージーランドとサウジアラビア、カナダとスイスなどが続いている。
韓国のPMMI指数はマイナス8%で、韓国に移住したいと考えている人よりも、海外への移住を希望する韓国人が多い計算になる。
複数の韓国メディアが
「経済規模は先進国のレベルとなったが、生活の質や対外的なイメージは開発途上国のレベルにとどまっていることを示す」
と伝えた。
特に、開発途上国に「押さえられた」との表現が目立つ。
「テロと洪水に悩まされているエジプトとパキスタンと同率で、韓国は後進国を脱出できなかったと言える」、
「中国やインド、ロシアにも後れをとった」、
「ザンビア、ナミビアなどアフリカ諸国にも押さえられた」
などと比較するメディアも多い。
そして、
「韓国の生活の質やイメージが実際の経済力に比べて大幅に遅れている」
との趣旨で同話題を伝えるメディアが多い。
韓国の09年GDPが世界15位だったことを勘案すると、この結果は韓国の経済規模にふさわしくないとの見解だ。
』
チャンスさえ得られれば国を出ていきたいのが大多数の国民の希望だということであろう。
やはり、地政学的にこの国は危険の最前線にいる。
そのため、人心も揺れ動き、荒んでいくのは止む得ない。
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