2011年12月22日木曜日

談志が死んで、お別れ会

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● NHKニュース



NHKニュース 2011年12月21日 17時49分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111221/t10014812521000.html

立川談志さんしのぶ お別れ会

 古典落語に新たな境地を開き、先月21日に亡くなった落語家の立川談志さんのお別れ会が東京都内で開かれ、芸能関係者などが談志さんをしのびました。

 東京都内のホテルで開かれたお別れ会には、東西の落語家や芸能関係者、政治家などおよそ1000人が集まりました。
 祭壇にはおととしの落語会で撮影された穏やかにほほえむ談志さんの遺影が飾られ、その前に、高座に見立てて愛用の扇子や湯飲み、座布団などが供えられました。
 はじめに長年親交があった石原慎太郎東京都知事が、弔辞の中で
 「君と最後に交わした会話は最も印象的で心にしみる会話だった。
 あの世でいつか会えるだろうから、死んでも元気でいてくれ。
 あばよ、さよなら談志師匠」
と遺影に向かって語りかけました。
 お別れ会は、生前の談志さんが好きだったジャズの名曲「ザッツ・ア・プレンティー」が演奏され、親しかった落語家たちが笑いを交えて思い出話を披露するなど、型破りな言動で知られた談志さんらしい、和やかな雰囲気の中で行われました。
 最後に談志さんが4年前に東京の高座で演じ、名演と言われた古典落語の「芝浜」の映像が流され、集まった人たちは、病と闘いながら古典落語の新たな解釈に取り組み続けた談志さんをしのんでいました。

 お別れ会のあと、談志さんの弟子の立川志の輔さんは
 「弟子全部集めても師匠の1人ぶんにもなりませんが、それぞれの弟子が少しずつ談志の芸を継承していきますので、もう少し経ったら『あいつはここを継承したんだな』と分かっていただけると思います」
と話していました。
 また、談志さんと50年来のつきあいがある元タレントの上岡龍太郎さんは
 「談志さんには珠玉のごときすばらしいことばから、どうでもよいつまらないことばまで、たくさんのことばを頂き、ものの見方から人生の生き方まで、すべてを教えていただきました。
 映画界の黒澤明監督のように500年たっても生き続ける天才だと思います」
と話していました。
 お笑いコンビ、爆笑問題の太田光さんは
 「30代で自分の芸を今後どうしていくのか悩んでいたとき、談志さんが『50歳までは何も考えず好きなことをやれ』と励ましてくれ、今、46歳になっても悩みは同じだと話すと、優しく『それならば60歳まで好きなことをやっていい』と言ってくれたことをよく思い出します。
 われわれにとっては、いつまでも雲の上の存在です」
と話していました。




タワーレコード 掲載: 2011年12月21日 16:50
http://tower.jp/article/feature/2011/12/21/danshitatekawa

追悼 立川談志
文/草柳俊一



どうやっても立川談志、誰がなんと言おうと立川談志の落語

 談志師匠が亡くなってしまいました。
 喉頭がん、75歳は早過ぎました。

 とにかく落語が好きで好きで、とことん落語に惚れ抜いていた方でした。
 演者でありながら、並外れた鑑賞眼を持つ、評論家顔負けの理論家でもありました。
 とにかく全身落語の師匠でした。

 縁あって、談志師匠の高座の録音のお手伝いを始めたのは、2003年1月の新宿厚生年金会館からです。
 以降、ライヴCDとしても利用出来るクオリティーで収録し、前々から続けている映像記録の音声トラックにも提供する形で東京近郊の独演会を中心に追いかけていました。

 そこへ、とんでもない企画が持ち込まれます。
 『談志百席』でした。
 立川談志のCD化されていない音源を「百」集めて、スタジオ録音して50枚のCDを作る と言うのです。
 プロデューサーに、
 「第一に談志師匠のネタを掻き集めても百席残っていない」(これは談志師匠も同じ思いだったのを、第1巻のCDで御本人 も語っております)、
 それに
 「スタジオ録音では談志の魅力は伝わらないのでは」
と反対したのですが、足りない分は新しくネタ下ろしする、そのためにもスタ ジオ録音で編集が必要だからと、妙な説得をされてスタートしてしまいます。
 時に2004年9月6日の事でした。

 スタジオ録音ではつまらないのではと言う危惧は、杞憂に終わります。
 実際の高座の再現にとどまらず、むし ろそれを逆手にとって、時にはDJ風にスピーカーの前の人に語り掛けるように喋り、仕草の解説をしながら進めたりと、師匠はそれまで数多くのラジオ番組を 経験していますから、そのノウハウを上手に取り入れたんですね。

 以後、毎月のように録音は重ねられ、2006年10月まで『百席』の録音は続きます。
 「百席も無いのに おっちょこちょいだから」
と請け合っちゃう師匠も師 匠ですが、初物のネタにはやはり苦労していました。
 「おい、これこんなもんだけど編集でなんとかまとめてくれねぇか」
と言われて
 「なんとかしましょう」
と 請け合っちゃう私も私です。
 おかげで随分苦労したものもあります。
 ジクゾーパズルのような編集をしても、喋っているのは立川談志、どうやっても立川談志、 誰がなんと言おうと立川談志の落語なのでした。

 「近江八景」での占いの解説を、たまたま遊びに来ていた野末陳平さん(占いに詳しい)をスタジオに引っ張 り込んで解説させて、それをそのままCDに入れて しまったり、「あたま山」では普通じゃつまらねぇからと、現実音の効果音を入れてしまおうなんて、そんなアイデアには脱帽させられました。(これワーワー 騒いでいる声まで師匠の声を使ったんです)

 千太・万吉の漫才「仁義は踊る」を落語で演りたいという時には、私がアイデアを出して一人二役の多重録音にしました。
 千太の談志と、万吉の談志が左右にいて掛け合うように編集したのです。
 作品をスタジオでプレーバックした時、師匠は大笑いして喜んでくれましたね。

 録音中にスタッフを爆笑させた「置き泥」、見事なセンスで現代流に蘇生された「提灯屋」や「ん廻し」。
 そ して、百席で生まれて高座でのレパートリーになった、「青龍刀権次」「子別れ」の下。
 そしてなにより録音終了後の師匠との落語談義、この『百席』での録音 の思い出は尽きません。

 『百席』の録音中も声の調子が悪い時がありましたが、このあと徐々に喉は悪化して行くようでした。
 出来の 良い高座の後で、舞台脇の私の所へ「どうだった」と確認に寄ってくれて、胸を張っていた師匠。
 そんな師匠が、
 「あんたが見て本当に酷い高座があったらこっ そり教えてくれ」
と言うまでに弱気になっていました。

 2007年12月18日、今思えば、この日の「芝浜」が立川談志の頂点だったと思います。
 喉が回復すればまた、という期待感は段々薄れて行きました。
 私にとっての最後の録音は、2011年2月20日、立川での「明烏」でした。

 私には談志師匠に仰せつかった大命があります。
 師匠が残した落語ライブラリーの有効活用です。
 整理整頓、然るべき所への保存は責任を持ってやらせて頂きます。

 立川談志、本名・松岡克由、戒名・立川雲黒斎家元勝手居士、2011年11月21日没。
 もっともっと、落語の話をしたかったのに残念です。



★草柳俊一(くさやなぎ・しゅんいち)
レコーディング・エンジニア、落語研究家。
 1953年神奈川県生まれ。スタジオ勤務・レコード会社勤務を通じて音楽畑のエンジニアとして活躍、 1997年にフリーとなってからは、落語関係の企画の仕事を多く手掛け、様々な音源を発掘して発表する一方、本来の録音エンジニアとして落語CDの作品も 数多い。

(2010年4月に行った立川談志インタヴューは下に載せてあります)




タワーレコード 掲載: 2010年07月27日 18:46
http://tower.jp/article/feature/2010/07/27/67990

インタヴュー 立川談志



■「芝浜」のこと

──お久し振りです。
 私は今年になって入院されてる間、DVDの編集をずっとやっていたので、毎日声は聴いていて、いつも家元と一緒にいた様な気がしてますけど。

□編集って、切ったり貼ったりするの?

──DVDはそれができないんですよ。
 絵が飛んでしまいますからね。
 収録場所がさまざまで、ホールの響きも違います。
 その響きは生かしつつ、最大公約数でレベルやら声の聞こえ方を平均化するんです。
 それと、私が録らせていただいたのは、2003年からですから、その頃から、声の調子がその日によって良かったり悪かったりする。
 それを聴きづらい声にならないように直していくんです。
 画面の中でもさかんに「ごめんね。こんな声で」みたいなことをおっしゃっている。

□今の映像ってのは、どの位置から撮っているわけ?

──一番後ろですね。

□すると、この間の「芝浜」も一番後ろから撮って、あのくらいになっているわけだ。
 それをテレビで観る事もできるわけだ。ホォー。

──私なんか、いつも後ろか横で聴いてますから。
 正面から見てないんです。
 あの「芝浜」も今回の映像で初めて観たんです。
 あの時はヘッドフォンから流れてくる客席の空気に凍りついてました。

□そうね。俺も凍りついちゃったけど、客席もそうだったね。

──そうなんですよ!
 だからアレはノーカットで全部はいっていますよ。
 枕の導入からね、最初は客席もわりとゆったりとしていたのが、本編に入って、女房の演出がいつもと違うっていうところに来たときに、お客さんが引き込まれていく雰囲気が、私は音だけしか聴いていないんですけども、感じたんですよ。
 もちろん自分も感じているんですが、それが、客がじーっと聞き入る空気があって。
 その瞬間に、これはすごいことになったかもしれないって。

□(写真家の)橘君もシャッター押せなかったって言っていたけどね。

──そういう雰囲気でしたよ、この「芝浜」は。
 その空気は、DVDで見る人でもわかると思うんです。
 あのシチュエーションを変えたっていうのは、出番前に考えていたんですか?

□いやいやもともとね、「芝浜」の原作っていうのは、人情噺みたいで嫌で、女房が亭主のためにやったんだっていうのがみえみえでね。
 「私のやったことは悪かったかね、悪くないよ」
っていっているけど、そのバックには「どうだ」といわんばかりみたいな了見もみえないことはないんでね。
 それが嫌なんで、全部自然にそうなっちゃったんだという演出には変えていましたけどね。
 だけどあの時の事を具体的にいうと、女房のほうから「私お酒飲む」って言い出したのは、あの場の感情注入っていうかな、勝手に言い出したんだ。
 だから落語の神様が降りて来た様だと。

──あと、女房の性格を変えたじゃないですか。
 かわいいだけの女房じゃなかったですよね。

□いや、前の女房はね、かわいいっていうより健気な女房でね。
 あんまり好きじゃなかったんだよね。

──本来だったら私もこの間の女房の演出のほうが家元が好きなタイプなんじゃないかと。

□うん。そうだと思うよ。
 だってあんなことされたら、普通だったら下手すりゃ、女こしらえるよね。
 (笑)あんな立派な女じゃたまらないってんでね。

──あれは、もう一度やれといわれてもやりにくいですよね。

□出来過ぎただけにもうやりにくいねぇ。
 それと、ふっと考えてやったことはニ度目にやるともうふっと考えたことでなくなるから、それにもう飽きちゃうわけね。


■よく帰っちゃったこと

──町田の「居残り佐平次」は帰っちゃう事件未遂の時のやつなんですが、帰らなくて良かったかと。

□あの時は久し振りに帰りたくなったね。
 でも戻ってあの「居残り」だろ。
 どうなるかわからないもんだね。
 ま、「居残り」と同じ全て成り行きって訳。
 人生成り行き。
 いや、帰ったことはよくあるね。
 いろんな理由で。
 「こんな下手な漫才の後には上がれねえ」って帰っちゃったり。
 その時は放送ですけどね。
 その時上がってた奴ってのが「のいる・こいる」なんだ。
 こないだ「おまえら俺が帰ったの覚えているか?」って聞いたら、「覚えてます」って。
 あのくらいはギャグになるんだ。
 それから俺の独演会っていうのはね、俺しかでないんだ。
 他の人みたいに前座を使わない。
 俺が行かなきゃ始まらないわけね。
 北海道放送、札幌でね、遅刻してとっくに定刻を過ぎているの。
 客席のドア開けてね、俺がね「早く始めろ、このヤロー!」って言ったんだ。
 周りは驚きやがってね。(笑)

──そういうの、いいサービスですね。
 (笑)いや、サービスかな?(笑)

□ずいぶん、帰っちゃったな。
 三越落語会ってのがあってね、前のが延びて随分遅れちゃったから、師匠の前で休憩とりたいんです、っていうから、嫌だ、俺は早く上がりたいし、客の食事を遅らせりゃあいいじゃないかって。
 聞きたくなきゃ落語なんておっぱらかしていくだろうし、そんなもん嫌だって言ったら、なんとかしてやってくれっていうし、嫌だっていうんで、着物をたたみはじめたんだ。
 そうしたら三遊亭圓遊師匠(先代)が驚いてね、芸人のくせに頼まれた仕事を平気で放り出して帰っちゃうなんて、初めてみたらしい。
 もっとも、この人は幇間持ちもやっていたせいで、余計驚いたのかもしれないけどね。
 その後で、柳家小さん師匠がここに出ることになっていたのだけど、ダメになったので、代わりに談志を出させますといったら、向こうが
 「頼むからあの人だけは勘弁してくれ」
って。
 「お前、断られちゃったよ」
って小さん師匠に言われたけどね(笑)。
 俺の代わりに師匠が行ったこともあったね。
 粋なもんだろって言ったんだよ、鈴本に。
 弟子の代わりに師匠が来るなんてのはね。
 そうしたらね、
 「そうはいうけどね、あなたね。
 林家三平さんが休んで、橘家円蔵さん(先代)が来るのは困ります」
って。
 (笑)そりゃあ、そうだよね。
 師匠が売れてればね。(笑)

 シャレで俺の代わりに、今の里う馬、前座の談十郎をおくったんだよ、二つ目になってたかな。
 いいでしょう。
 師匠の代わりに前座が深いところに上るなんていうのはって言ったら、冗談じゃないって鈴本が文句いってたよ。
 シャレにならないって。
 なるだろ、って言ったら我々の世界で「シャレがきつすぎる」ってヤツね。「シャレがきついよ」って。

──小さん師匠が行くときって、快く行ってくれたわけですか?

□そうだね。
 親子関係みたいなもんだったんだよ。
 俺が泊まると、ふとんの四隅を押さえてくれるような人。
 だからなんでも言えた。
 喧嘩なんて年中だよ。
 師匠に平気で小言言っちゃうしね、
 「うるせえや、どうのこうのって」
 「うるさくねえや」。
 でね、どっちが受けるの受けないのとかでね、「じゃあ二人会やろう」って。
 「俺と二人会やったら、師匠やる前に客は全員帰っちゃうよ」って。
 讒謗だよね。
 (笑)「うるせえ、馬鹿野郎」って。
 流石にね。俺のことなぐってね。
 なぐるったって、ちょいと頭はたくくらいですけどね。
 そのくらいの間柄だからね。
 何でも言えたしね。
 何でも言えるような状況を俺が作ったつもりでいたわけよ。


■高座の記録を残すということ

──師匠は、自分でやったものが残るというのはどう考えているんですか?

□あのね、随分前にね。
 『談志落語集』を出さないかと。
 俺、嫌だったんだよ。
 そしたら向こうが、
 「若い頃はこんなんだったなって思い出にもなりますよ」
、って言ってくれたんだけど、なんか俺嫌だったんだね。
 理由がない訳がない。
 なんでも物事には理由がありますから。
 きっと、あんまり青臭くて下手なんで、後になってみっともないと思ったのでしょうね。
 今考えてみれば、その頃録るなんて珍しい例ですから、録っておけばよかったな、って思います。

──多分、家元が最初に出したのって、ソノシートで「らくだ」と「源平」でしょうね。

□そうでしょうね。
 あれはマネージャーかなんかがね、俺が嫌がっているのに、平気で出しちゃった。
 向こうは向こうなりにいいと思ったんでしょう。
 俺は怒って、こんなもん、出しやがって、ていうのはありましたけどね。

──今の若手の人にもこだわって嫌だっていう人がいるんだけどね、やっぱり出しておいたほうがいいと思いませんか?

□思う。

──その時じゃなければできないっていうのあるわけだし、年を重ねていくうちに、芸風が変わってきたって。
 あれはその時のものじゃないですか。

□そうだと思うね。

──家元は結構、ひとり会もテープを残していたっていうのもありますし、まだ残っているほうですよね。
 歴史的にずっと。
 昭和41年からひとり会始めているじゃないですか。
 そこからのものは沢山残っているし、今だって録っておけっていうんで、どこのものも回しているわけだし。
 途中から私が入って録っているし。
 そういう意味では軌跡が、集大成はできますよ。
 30年代は放送局にぼちぼち残っているし。
 我々収集家の所にもまだまだ談志になりたての頃や、昭和36年、37年の小ゑん時代の音があるわけだし。
 面白いですよね、どう変わってくるのかっていうね。

 話は違うんですがね。
 落語の収集家のところに、ある時屑屋みたいのが来てね、なんかもってきたらしいんだよ。
 その中にね、今で言うキウイみたいな、今だから名前が出たからいいようなもんの、そこまでいかないようなセコな噺家だとか、何べんも何べんも同じことばかりやっているって馬鹿にしているような漫才ね、そんなテープを安く山のようにガラクタで持って来たんだってさ。
 「今思えば買っておけばよかった」
ってそいつがそう言っていたけどね。
 それと同じように、出しておけばよかった、っていう部分もあります。

──今度のDVDに関してはいかがですか。

□まあ、出したいって竹書房が言うんだし、俺の回りには俺様を良くわかってくれる人がいてくれて、ま、あんたとか貞やん(川戸貞吉氏)とか、吉川さんとか、竹書房も一緒。
 みんながいいって言うんだから内容は信用してる。
 大体俺様の高座はそれがドキュメントだって言う事でしょ。
 駄目なものもドキュメントだって、酷いよねそりゃ。
 そういうの入って無いだろ。

──無い無い。それは大丈夫です。



★立川談志(たてかわ・だんし)
 落語家。1936年東京生まれ。落語立川流家元。
 1952年、高校中退後16歳で五代目柳家小さんに入門。前座名小よし、二ツ目で小ゑん。
 1963年、五代目立川談志を襲名、真打昇進。
 1971年参議院議員となり、1979年まで務め、決算理事、沖縄開発庁政務次官等を歴任する。
 その間、落語協会に属し、理事を務めるが、1983年同協会を脱会。
 落語立川流を創設して家元となり、現在に至る。
 多数の著作があるが、若干30歳にして著した『現代落語論』は、多くの落語家のバイブルとなっている。近著は、『世間はやかん』(春秋社 5/21発売)。

談志大全 (上) 立川談志 古典落語ライブ2001~2007

 若き日より工夫を凝らしてきた十八番に加え、ライブ映像初登場となる「子別れ(下)」「風呂敷」「青龍刀権次」等のネタ下ろし演目、絶品の伝説を作り上げた「居残り佐平次」、さらに“芸術の神(ミューズ)が舞い降りた”と評される2007年12月18日の「芝濱」までもを網羅した立川談志21世紀版スーパーベスト!!

第一巻:二階ぞめき、疝気の虫、★包丁
第二巻:粗忽長屋、★夢金、文七元結
第三巻:★青龍刀権次、★小言幸兵衛、★子別れ(下)
第四巻:富久、★首提灯、★五貫裁き
第五巻:二人旅~万金丹、★慶安太平記、紺屋高尾
第六巻:へっつい幽霊、唖の釣、★山屋
第七巻:木乃伊取り、★浮世床~女給の文、黄金餅
第八巻:鼠穴、★かぼちゃ屋、★死神
第九巻:つるつる、権助提灯、居残り佐平次
第十巻:らくだ、★風呂敷、芝濱
★は初映像化演目
立川談志 [竹書房 TSDS-75530] 10枚組 6/4発売


★草柳俊一(くさやなぎ・しゅんいち)
 レコーディング・エンジニア、落語研究家。1953年神奈川県生まれ。
 スタジオ勤務・レコード会社勤務を通じて音楽畑のエンジニアとして活躍、1997年にフリーとなってからは、落語関係の企画の仕事を多く手掛け、様々な音源を発掘して発表する一方、本来の録音エンジニアとして落語CDの作品も数多い。







談志が死んだ



立川談志 追悼.wmv



立川談志 死して落語を残す



立川談志 桂枝雀





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